●コメント欄について思うこと

 ブログにはコメント欄がある。

 コメント欄の善し悪しはさまざまあるだろう。励ましのコメントを貰えればうれしいだろうし、不当に非難されればイヤな思いをするだろう。

 私は最初の頃は、コメント欄に不当に非難されるのが怖かったのでコメントを受け付けないようにしていた。

 しかし、コメントを一切受け付けなければ、交流が一切生まれないし、自分の悪い点にも気づくこともない。建設的な批判であれば喜んで受け入れるくらいの度量がなければ、読者だって付かないだろう。

 そう思った私は、ある日からコメントを受け付けることとした。

 すると意外や意外、好意的なコメントが多かった(もっともコメントの数自体がそれほど多いわけではないけれど)。

 私はこのブログ以外に「ロンドン大学遠隔教育日誌」というブログを開設しているのだが、こちらのほうは、いただくコメントの約9割は、コメントというより質問である。

 私としては、励ましのコメントを貰うのが一番うれしいのであるが、質問であれ、私が回答することで読者の方に喜んでいただけるのであれば、それはそれでいいと思っている。

 ロンドン大学遠隔教育の情報は日本語で得られる箇所がほとんどなく、情報収集しようと思えば、すべて英語で読まなければならない。であるから英語が読めない人が次から次へと質問をしてくるのである。

 もちろん私でできることであれば質問にお答えしてあげたい。それでその人の役に立てるのであれば、お金にはならなくても、それも一つの社会貢献である。そう思って、質問されたら必ず、丁寧な回答を返していた。

 ところが簡単に回答が得られると思ってか、自分で調べようと思えば簡単に調べられるようなことから、回答しようのないものまで、なんでもかんでも質問してくる人がいた。

 たとえば、回答に困る質問には次のようなものがある。

「何時間勉強すれば卒業できますか」
「私は英検3級レベルですが、ついていけますか?」
「英語ができなければ、どうなるのですか?」
「法学部はロンドン大学でも最難関という噂がありますが、本当ですか?」
「法学部の論述試験は、持ち込み可ですか?」
「学生証はカッコいいですか? いつ送られてきますか」
「卒業したらどうなりますか?」
「遠隔教育って、不合格になることはありますか?」
「入学申請書に英語の実力を証明する証書を同封しなかったらどうなりますか?」
「お友だちはできますか?」

 最初のうちは、こういう「回答に困る」質問に対しても、私なりに丁寧に回答を書いていた。あまり厳しいことを書くと相手の気分を害するかもしれないと思い、慎重に言葉を選んで書いていた。そのため、一つの質問に答えるのにも相当の時間と労力を費やした。
 
 しかし私がどんなに丁寧に回答を書いたところで、それに対するお礼の言葉など一切なく、次から次へと自分の聞きたいことだけを聞いてくるのである。私が書いたブログの内容には一切触れずに、まさに自分の聞きたいことだけに一意専念し、コメント欄を利用して質問してくるのである。

 ある日、その人が「遠隔教育って、不合格になることはありますか?」と質問してきたことがあった。おそらく入学申請をしても合格通知が来なくて苛立っていたのであろう。

 私は丁寧に「遠隔教育でも、入学申請した人が全員合格になるとは限らないと思います」という趣旨のことを回答したのだが、その翌日に同じ人から「遠隔教育って、不合格になることはありますか?」と同じ質問が投げかけられた。

 私はすでに一回回答した質問であったし、そもそもその質問はコメント欄に書き入れられたものであり、管理人宛の質問というわけでもなかったので、もしかすると他のブログの読者が回答するかもしれないと思い、放置しておいた。しかし、案の定、誰も回答はしなかった。

 するとまた同じ人が、今度はハンドルネームを変えて「遠隔教育って、不合格になることはありますか?」と質問していた(同じIPアドレスだったので同一人物によるコメントだと分かった)。

 私はこの、あまりのしつこさにコメント欄を承認制にすることに決めたのだった。そういう質問をしたければ、直接ロンドン大学に問い合わせるべきだし、ブログの読者に質問したところで、明確な返事など期待できるわけでもない。

 こういう経緯があったので、コメント欄を承認制にし、読者のためになると思えるものだけを承認し掲載することにした。コメント欄はコメントを書くために存在するのであるから、質問をするなとまでは言わないけれど、少なくとも少しくらいはブログの内容に対してコメントをすべきだし、もし質問だけをするのであれば、回答をもらったら一言くらいはお礼のコメントを残すのが礼儀というものではないだろうか(もっともお礼のコメントがほしくて回答しているわけではないけれど)。