●名を残すより善い人間になることを考える

 近代日本を代表する作家の一人に三島由紀夫がいます。

 彼は、川端康成に言わせれば「300年に1人しか現れないほどの天才」と言われるほどの才能の持ち主でした。

 16歳のときからプロの作家として書き始め、17歳になってからは毎晩、明け方まで書くようになり、それを一生続けたという、まさに作家の鏡とも言える存在でした。

 彼は驚くほど頭のいい人でした。学習院高等科を首席で卒業し、東大法学部に入学、東大も次席で卒業しました。

 その後、法学部で論理性を身につけた彼は、日本文学史上でも希な論理性を有した小説を書き始め、次々とベストセラーを生みだし、やがてはノーベル文学賞の候補にもなりました。

 このような側面を見れば、いかに彼の作家としての才能が飛び抜けていたかが分かります。

 しかし、一人の人間として見た場合、彼は成功者とはいえないどころか、まったく平凡な人と比べても、落伍者としかいいようがない過ちを犯しました。

 45歳のときに、妄想にとりつかれた彼は割腹自殺をしたのです。

 なぜ彼は自殺したのでしょうか。

 それは彼が英雄的自己犠牲に対する憧れ、切腹そのものに対する官能的な執着を捨てきれなかったからです。

 表向きには日本国憲法に抗議するためでしたが、彼が自殺しても何も変わらないどころか、むしろ、事態は悪化しただけでした。

 妻子が見捨てられただけでなく、残された「楯の会」のメンバーも実刑判決を受けました。

 私たちは一つの分野で傑出している人を見れば、憧れを抱くものです。

 一つの分野で傑出していれば人間としては多少おかしくても許されるような寛容さを抱きがちなのです。

 そのような憧れが強ければ強いほど、自分も自分の分野で傑出しようと思うものです。

 しかし、一つの分野で傑出しても、それは「それだけのこと」だということを忘れないようにしましょう。

 それはたしかにその分野では素晴らしいことかもしれないけれど、人間として善いかどうかは別問題なのです。

 「平凡」であっても、一人の人間としてより善く生きようと努力して生きることのほうが何倍も価値のあることなのです。