印税が引き下げられるのを防いだ 

 翻訳書を出版してもらったことのある出版社の担当者からある日電話がかかってきて、翻訳を依頼されました。前回は、出版契約書を出してほしいとお願いしたものの、うやむやにされたまま仕事をし終えたところ、口約束どおり印税を払っていただけたので、多少は安心して引き受けたのでした。
 担当者は電話で「印税は7%になります」ということを伝えただけでしたが、前回が前回でしたから、今回もまた口約束だけで仕事を進めざるをえないだろうなと思っていました。今なら、出版契約書を出してもらえるまで執拗に粘るのですが、当時の私は仕事をもらわなければ食べていけない身。それ以上は求められませんでした。
 仕事は困難を極めました。厚い本でしたので、予想外に苦戦しました。しかし、それを嘆くようではプロではありません。苦心惨憺の末、訳文をしあげ、提出しました。
 訳文を提出してから数週間後のことでした。担当者から次のようなメールがきました。
「この本はかなり厚い本ですし、どこかを削りたいと思います。つきましては打ち合わせをさせていただきたく存じます」
 私はこのメールを見ても、特におかしいとは思いませんでした。訳文を削るということは、それほど珍しいことではないからです。
 約束していた日に編集部まで出向いていくと、担当者は意外なことを話し始めました。
「今、出版業界ってものすごく大変なのよ。今年出した翻訳書で重版になったものって一つもないのです。でね、この本、7%という約束だったけど、初版だけでも6%ってことにしてもらえませんか? 重版からは7%はきちんと払いますから」
 訳文を削るという話だったのに、担当者が言い出したのは、印税を削るという話でした。
「それは約束がちがうじゃないですか」
「それはそうなんですけど、翻訳を依頼したときと今とでは事情が変わったんだからしかたがないじゃないですか。依頼したときは7%で払えると思ってたのに、事情が変わったんですよ」
「だからといって翻訳家だけにしわよせが来るのもおかしくないですか。翻訳家にとって、一番大切なのは初版印税なんです。それが最低保障金ってことですから」
「それはわかりますよ。でもね、今どきね、7%にこだわっていたら、翻訳家なんてやってられないんじゃないですか? だって、ほかの出版社も6%のところ多いでしょう?」
 たしかに6%の出版社もあります。しかし、「7%払う」という約束は約束です。すでに約束したことを、都合が悪くなったからといって、ほかの出版社の話を引き合いに出して削るというのはおかしな話です。それなら、最初の最初から6%で依頼しておけばよかったのです。
 私は反論しました。
「ということは、約束を破るってことですか? それは納得できません」
「そこのところをなんとか理解してもらえませんか」
 担当者はそういったかと思うと、ほかの翻訳家の名前をあげて、あの人も別の出版社で印税を相当削られたらしいとか、この人も削られたというような話を延々と続けました。
 しかし、ここで簡単に折れてしまっては、ほかの翻訳家にも迷惑がかかるのです。もし私が間単に折れてしまったら、出版社側も「都合が悪くなったら、翻訳家の印税を削ればいい」と学習してしまい、ほかの翻訳家にも同じことをするからです。私は、どうしても7%は払えないというのなら、約束を破ったことになるので、例えば、年内に次の仕事を優先的に回してくれるなどの便益をはかってもらえるのなら、6%でも考えないでもないとも答えておきました。金に困っている当時の私にとって仕事が空くことが一番恐ろしいことでした。そんな私にとって次から次へと翻訳書を出せればそれに超したことはない。だから、「すぐに次の仕事を優先的に回してくれる」という便益をはかってくれるのなら、印税が削られる不利益も甘受しないわけではない、ということです。
 担当者は困ったような顔をしていましたが、とりあえず、削らない方向で考えてみる、結論は後日連絡するということでその場は収まりました。
 しかし、待てども暮らせど担当者から何の連絡も来ませんでした。こういうときに待たされるのは、非常に辛い。精神的に参ってしまいます。2週間くらい経っても何の連絡も来ないままなので、しびれを切らした私は担当者に電話をしました。すると、約束したとおりの印税を払うと言ってくれました。印税が削られるのをなんとか防いだ事件でしたが、なんとなく後味の悪い感じになってしまいました。
 これから出版翻訳家になろうという人に伝えておきたいことは、安易に印税の引き下げに応じてはならないということです。安易に応じてしまったら、出版社側は「都合が悪くなれば翻訳家を泣かせておけばいい」と思いこむだけです。そうなると、ほかの翻訳家にも迷惑がかかります。