印税引き下げ事件 

 
私が出版翻訳家になったばかりの話です。出版直後に印税が引き下げられた事件がありました。そのときのことをお話ししましょう。

 当時の私は、まだ契約から出版までの流れが分かっておらず、出版社に指示されるまま動いていただけでした。まず、出版することが決まったことが伝えられ、自分の翻訳書が出せるということだけで舞い上がってしまい、口頭で「印税は6%、定価は1,000円程度、初版部数は12000部を考えている」ということだけ言われて、それだけで仕事に取りかかったのです。今から思えば、非常に危ないことをしたと思います。なにしろ、口約束だけなので証拠は一切残っていなかったのです。

 しかし、私は自分の翻訳書が出せるということが嬉しくて舞い上がってしまい、自分の口から「出版契約書を出してほしい」とは言えませんでした。条件はちゃんと口頭で聞いているわけだし、まさか、あとから引き下げられるなどとは思っていなかったのです。だから、出版契約書は交わさずに仕事をするのがこの業界のしきたりなのだろうと自分で自分を納得させていました。
 
 その本は小型の本だったので、一見すると早く訳せそうでしたが、書かれてある文字も小さかったため、実際には6ヶ月くらいの時間がかかりました。また、単に翻訳をしただけではなく、こまごまとした編集作業も私に任されたため、さらに時間がかかりました。

 こうして長い時間をかけて仕上げ、出版も間近となっていました。本が刷り上がると、翻訳家は見本書籍として10冊を無料で頂けることになっていました。見本書籍は、出版日の数日前に刷り上がるため、「刷り上がったら、宅配便で自宅まで送ってください」と伝えて、了解を得ていました。そうして私は、自分の翻訳書が刷り上がるのを今か今かと楽しみにして待っていました。

 出版直前となったある日、担当編集者から一枚のファックスが送られてきました。見てみると、こう書かれてあります。
「見本書籍ができあがったら、直接、手渡しをしたいので、○月△日の午後×時に、前回打ち合わせをした喫茶店にお越しください」
 
 一方的な通知でした。私の都合など聞かずに、一方的に日時を決め、その時刻に喫茶店に来いというのです。
 
 私は、なぜ担当編集者がこんなファックスを送ってきたのかさっぱり分かりませんでした。というのも、すでに「自宅まで宅配便で送ってくれる」という約束をしていたからです。

 私もまだ出版翻訳家になりたてでしたから、もしかすると、見本書籍ができあがった日にはお祝いとして食事でもご馳走してくれるというしきたりでもあるのかなぁとも思っていました。

 私は、そのファックスを受け取ってから、担当編集者に何度か電話をしたのですが、けっきょく、折り返しの電話はいただけないまま、指定された当日が来ました。

 しかたがないので、私は指定された日に指定された喫茶店に行きました。ただ、気分は悪くはありませんでした。なにしろ、新しく生まれた私の翻訳書に出会える日です。

 私が喫茶店に入ってから、しばらく経ってから担当編集者が入ってきました。暗い表情をしていました。担当編集者は席に着くなり、こう言い始めました。

「申し訳ないのだが、印税は6%と言っていたのだが、4%しか払えなくなった。私は、上のものと何度も何度もかけあった。この本はけっこう厚い本だし、編集作業も大変な本だ。だから印税を削るのはかわいそうだと言った。だが、いくら言っても理解は得られなかった。申し訳ないが、4%で了解してもらえないか? ただし、重版になったら重版部分から6%は約束するので…」

「……」

 担当編集者がわざわざ喫茶店に呼び出した理由がその瞬間に分かりました。電話やファックスでは印税を削るという話は切り出しにくかったのでしょう。だからわざわざ呼び出したのです。

 私は、許せない気持ちで一杯になりました。その場で「ふざけたこと言うんじゃないよ」とでも言ってやりたかった。しかし、それが無理なことも承知していました。なにぶん、口約束だけで仕事をしているので、いざとなったら証拠がないのです。担当編集者は必至に自己弁護を始めました。

「ただね、発行部数は最初12000部って言っていたところ、15000部に増えたし、定価も少し上がったので、結局、印税としての総額としては最初に提示した金額とたいして変わりはないんです。そういうことで、了解してもらえませんか」

 交渉に慣れていなかった私は、その時点で、うかつにも、「分かりました」と言ってしまいました。本当は到底了解などできる話ではなかったのですが、ついつい、心にもない言葉が出てしまったのです。なぜあのとき、分かりましたと言ってしまったのか、今でも理解できないくらいです。

 すると担当編集者はホッとしたような表情をして、同時期に出版される別の翻訳書を示しながらこう言いました。

「実はこの本の訳者にも負けてもらおうとしていたんです。この本は2人の訳者の共訳で2人で6%という約束ですから、1人あたま3%なんですよ。ただ、この本を6%から4%に引き下げると、1人あたま2%になっちゃうでしょう?さすがに1人2%とは言えなくてね。だから、あなたの本で負けてもらうしかなかった。申し訳ない」

 私はそれを聞いて怒り心頭になりました。2人で手分けして訳した共訳者がそれぞれ3%貰っているのに、あれだけ大変な量の翻訳をした私には4%? たった1%しか違わないの? それってひどすぎないか? それなら6%を4%に削らなくても、5%でも良かったんじゃないか?」

 私も新人だったからか、随分、舐められたことをされました。そんな話があるのなら、私は5%でもいいだろう、と言いたくなります。ただ、残念なことに、「分かりました」という言葉を言ってしまった後だったのです

 こうして、本来は6%という約束だった印税が4%に削られてしまったのでした。たった2%じゃないかと思う人もいるかもしれませんが、実は金額から言えば一気に3分の2にされたのです。これでこの担当編集者と縁が切れてしまったのは言うまでもありません。

 この事件以降、私は極力、口約束だけでは仕事をしないことに決め、なかなか出版契約書を出してくれない出版社が相手であっても、メールや電話の録音などで証拠を残した上で仕事をするようになったのです。

 出版翻訳家になろうとしている人に、くれぐれも言っておきます。著書ならば早く書けることもあります。しかし、翻訳書は一冊仕上げるのに莫大な時間と労力がかかります。それを忘れないでください。そしてその報酬が軽く削られることのないよう、口約束だけでは絶対に仕事を引き受けないようにしなければなりません。一人ひとりがそういう注意をしていかないかぎり、口約束だけでの仕事の依頼という悪習はなくなりはしないのです。