進捗状況確認を怠るな

 ある出版社のトラブル事例である。

 某出版社の編集長が、ある翻訳家に1冊の本の翻訳を1年の期間を与えて頼んだ。しかしその編集長はその翻訳家のセールストークを鵜呑みにして頼んだだけで、その翻訳家の実力や実績も知らなければ、期限を守る人間であるかどうかも知らなかった。

 さて、1年が経過した。訳文が一向にあがってくる気配がないので、いらだった編集長は翻訳家に訳文を提出するように求めたらしい。

 ところが、その翻訳家は専業の翻訳家ではなく、他に仕事を持っていたこともあり、翻訳がなかなか進まなかったらしい。1年経って、訳し終えたのは1冊の5分の1程度だけだという。

 編集長はその訳文を見て仰天した。とても読める代物ではなかったのだ。編集長としては、どこをどう手直ししようが訳書として出版できそうにないと判断せざるを得なかったらしい。

 翻訳家は「もう1年ほしい、今度という今度はがんばる」と懇願したらしいが、1年経って催促されて出してきたのが5分の1の量の訳文である。しかもその訳文がとても読める代物ではなかったのである。「今度はがんばる」という言葉に希望を見いだせなかった編集長は翻訳の打ち切りを命じ、初版印税だけを払って出版中止にしたという。

 これは翻訳家の落ち度のほうが大きいとは思うが、出版社側にも落ち度がなかったとは言えないだろう。そもそも、初めておつきあいする場合は、少なくとも過去の作品をチェックすべきだったし、過去の作品がなければトライアルで5ページでも10ページでも訳させておくべきだった。それを怠ったのは出版社側の責任だろう。

 しかし、出版社側の責任はそれだけではない。1年間の翻訳期間を与えたといっても、1年間一切コミュニケーションを取らなかったのはまずい。1ヶ月ごとに進捗状況を確認するとか、たとえば20ページ翻訳が終えたらその都度訳文を提出させるとか、そういったことをこまめにやっていれば、こういう悲劇に逢わずにすんだであろう。

 翻訳家と出版社は普段一緒に仕事をするわけではない。折りにふれてコミュニケーションをとっておかなければ、仮に翻訳家が病気や事故で入院して翻訳作業を中断していても、出版社はそれにまったく気づかないことになる。そうなれば出版スケジュールが狂って困るのは出版社側ではないか。

 私は出版翻訳の場合も実務翻訳の場合も、翻訳の仕事を引き受けた場合、折りにふれ、進捗状況を自分のほうから申告しているし、訳文もこまめに提出している。

 進捗状況報告をこまめにやったとしても、それほど時間や労力がかかるわけではないのであるから、必ずやるべきだと思う。とくに普段コミュニケーションをとる機会の少ない間柄であれば尚更そうするべきだと思う。