え? 私の訳者名で出るんじゃないの?

 私が出版翻訳家としてスタートを切った頃の苦い思い出です。

 当時の私は、すでに3冊ほど著書がありましたが、出版翻訳家としての実績は無いに等しかったのです。

 とはいうものの、すでに4〜5年の産業翻訳の経験もありましたし、イギリスの大学院も出ていましたから、翻訳には自信がありました。

 そんなある日、ある出版社から、一度お目にかかりたいとの電話がありました。

 電話では、出版社のほうから私の家までご挨拶に伺いたいとのことでしたが、当時の私の家はあまりにも狭く、人を呼べるような所ではありませんでしたので、私のほうから出版社に出向いて行きました。

 ところが、話を聞いていると、どうやらその出版社の真の目的は、ある高額商品を買わせようとしていたみたいでした。が、そこは若かった私のころ、逆に私のほうから、本を出版させてほしい旨、きっちりとアピールして帰りました。

 数ヶ月経ったある日のこと、その出版社から仕事のオファーがありました。私は高額商品を買うことなく、仕事を取ることに成功したわけです(笑)。

 一つは、ゴーストライターをやってほしいとのことでしたが、それはここでは詳しくは述べません。その話が消えてなくなった後、その出版社は別の仕事を依頼してきました。それは、その出版社が以前出した翻訳書の翻訳のクオリティがあまりにも酷いので、そのリメイク版を作りたいとのことでした。

「ウチで前にこの本を出したのだが、お読みになったことってありますか? 翻訳のクオリティが悪すぎてね。やはりこのクオリティでは出版社としては恥ずかしい。そこで宮崎さんのような実力のある方に訳し直してほしいのです」

 当時の私は、自分の訳書が出せるということだけで舞い上がってしまい、条件も確認せずに二つ返事で引き受けて仕事を開始しました。

 毎日1日12時間くらいは翻訳に費やしました。1日、1日が本当にしんどかった思い出があります。ただ、自分の訳書が出せるということだけが救いでした。

 そんなある日、打ち合わせをする機会があったのですが、どうも話していると、出版社はその出版社の社長の訳者名で出そうとしていることが分かりました。つまり、私は下訳を依頼されていただけだったのです。

 私が問いただすと、出版社はこう切り出しました。

「ウチでは、どの翻訳者も、最初の1冊だけは下訳をやってもらうことになっているんだ」

「ええ!? それは聞いてませんでしたけど」

「嫌なら、ちょっと考えさせて貰おうかな」

 出版社はそう言って、圧力をかけてきました。

 私は、そんな馬鹿な! と思いました。

 もうすでに私は多大な時間と労力を費やしています。今から、出版がひっくり返って、お金が払われないと私は生活に支障が出ます。私はしぶしぶ、(2冊目からは私の訳者名で出してもらえるのだな、辛抱辛抱)と自分を無理に納得させて、了承せざるを得ませんでした。背に腹は代えられないというやつですね。

 新人はこういう風に舐められた真似をされることもあるので、十分気をつけましょう。

 出版社が下訳だということを明確に伝えてなければ、訳者名を別の名前で出すこと自体、著作権法上、違法ですから、本来、このようなことはあってはならないことなのです。